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八王子市の名前の由来(八王子神社)
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八王子市の名前の由来
このページでは、八王子市が、なぜ「八王子」という地名になったのか、地名のいわれや成り立ちについて紹介します。
1 「八王子」の由来
「八王子」という地名は、全国に分布しています。それは、牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子(八王子)をまつる信仰の広がりの中で、八王子神社や八王子権現社(ごんげんしゃ)が建立され、地域の信仰を集め始めるとともに、地名として定着していったからです。私たちの八王子の起源も、ここにあります。今、八王子城跡に鎮座する八王子神社がそれにあたります。
牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドから中国を経て伝わってきたものですが、わが国では、疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として、古代より定着したようです。中世には、その8人の子を眷属神(けんぞくしん)(主神に従属する神々)とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として全国に広がっていったといいます。
◆現在の八王子神社

2 八王子神社の由緒
八王子神社の由緒については、宗関寺(元八王子町)に伝わる古記録に記されています。これによると、平安時代、延喜13年(913)の秋、京都から訪れた妙行(みょうこう)という学僧が、深沢山(後に八王子城が築かれる場所)山頂の岩屋で修行をはじめました。
夜がふけると、にわかに強風が吹き、雷鳴がひびき、いろいろな妖怪が群れを成して現れ始めました。妖怪たちは、妙行の回りにおしよせてくると、たちまち姿を消してしまいます。
その後、月明かりの下でお経を唱えていると、今度は岩屋の上から大蛇が降りてきて、妙行の回りにとぐろを巻いて眠ってしまいました。妙行が、手にした如意棒(にょいぼう)で頭を打ち「目を覚ませ」と言うと、大蛇はたちまち消えてしまったのです。
夜が明けると、8人の童子(どうじ)を伴った神が現れ、「私に属する神々や弟子たちは、あなたの徳に感服しました。願わくば、この地にとどまってください。私は、あなたの神護(じんご)の法にしたがいます」と告げたのです。妙行が名前を問うと「私は牛頭天王で伴っているのは八王子です」と答え、姿を消してしまいました。

妙行は、さらに修行を積み、延喜16年(916)、深沢山を天王峰とし、周囲の8つの峰を八王峰とし、それぞれに祭祠を建て、牛頭天王と八王子をまつる八王子信仰が始まったのです。翌年、深沢山のふもとに一寺が建立され、しだいに伽藍(がらん)も整備されていきました。
天慶2年(939)、妙行の功績が都の朱雀天皇の耳に届き、「華厳菩薩(けごんぼさつ)」の称号が贈られるとともに、寺名も「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改められたのです。
これが、八王子神社の由緒とその神宮寺(じんぐうじ)となった牛頭山神護寺(後の宗関寺)の縁起として伝えられた「華厳菩薩伝説」のあらましです。

3 北条氏康の書状から
八王子神社を中心とした地域が、いつごろから「八王子」と呼ばれ始めたかははっきりしていませんが、永禄12年(1569)5月8日付北条氏康の書状が今のところ最初のものです。 この書状の存在から、八王子神社の周辺地域が、戦国時代には「八王子」と呼ばれるようになったことは間違いありません。
北条氏康は、小田原城(神奈川県小田原市)に本拠を置いた北条氏3代目の当主で、滝山城主北条氏照の父親にあたります。この書状の中で「八王子方面」の意味で「八王子筋」という表現が使われています。
この永禄12年、北条氏は甲斐(山梨県)の武田信玄と戦い始めていました。北条氏照は、家臣を率いて出陣していたために、武田氏の領国と境を接する滝山領(由井領)は、防御が手薄になっていました。
そこで、氏康は江戸城を守っていた武将の1人、富永孫四郎に一刻も早く滝山城に移り、由井の八日市(現在の四谷町周辺と推定されます)へ着陣するように書状で命じたのです。それは「八王子筋」へ武田軍が攻めこんでくるという情報を入手したけれど、いまこの地域には味方の軍勢がまったくいないので、たいへん心配したからという理由でした。
この書状の内容から、16世紀の半ばには、八王子神社とその神宮寺である牛頭山神護寺周辺は「八王子」と呼ばれていたことがわかります。
4 北条氏照による八王子城の築城
その後、天正10年(1582)をすぎたころ、北条氏照は、八王子権現が祀られている深沢山に新しい城を築き、八王子権現をこの新しい城の守護神としたのです。そのため、「八王子城」と呼ばれるようになり、天正14年(1586)ころには滝山城から移転したといわれています。
氏照が八王子城を築き、居城を移転した背景には、いろいろな事情が考えられていますが、もっとも大きい理由は、当時、天下統一のために従わない大名に対して軍事力による制圧を進めていた豊臣秀吉に備えるためだったようです。
氏照は、北条氏を代表する戦上手であり、情報通でもあったので、秀吉の戦い方は十分に研究していたはずです。秀吉と戦うことになれば、最終的には本城である小田原城で籠城戦になると考えて、各地におかれた支城は、できるだけ少ない人数で守る必要があると考えたのでしょう。そこで防御線が広く、守備に多くの人数が必要な滝山城よりも、高低差が大きく攻めにくく守りやすい山城の八王子城に移転したと考えられます。
こうして戦いに備えた八王子城でしたが、天正18年(1590)6月23日、前田利家や上杉景勝らが率いる豊臣軍の圧倒的攻勢のもと、わずか1日で落城してしまいます。

5 八王子城の落城後
八王子城の落城後、徳川家康の代官大久保長安(おおくぼながやす)によって、新たに甲州道中の八王子宿(八王子横山十五宿)が設置されます。もとの八王子の地域は「元八王子村」と呼ばれるようになり、地元では神護寺に由来する「じごじ」という通称地名も受け継がれてきました。「八王子」の地名は、華厳菩薩伝説と八王子信仰の広がり、そして八王子城の築城という歴史的背景のもとに成立し、定着した地名だったのです。
6 現在の八王子神社
八王子神社は現在も地元の方々により大切に守られ、八王子城跡の登山道入口から本丸までの道中、山頂近くに鎮座しています。
◆参道石段下から見上げる八王子神社

所在地(八王子神社)
東京都八王子市元八王子町3丁目
交通アクセス
八王子城跡の登山道入口から道なりに進み、徒歩25分程度。
山道になりますので、歩きやすい靴や服装でお越しください。
八王子城跡へのアクセスは以下のページをご覧ください。
※参考:八王子城跡
このページに掲載されている情報のお問い合わせ先
- 生涯学習スポーツ部文化財課
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〒192-8501 八王子市元本郷町三丁目24番1号
電話:042-620-7265
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